ピアノの響く住宅街を散歩する。
ぼくはこの時代を散歩するのが好きだ。
夕暮れ時は住宅街の路地のほうが空よりも暗くなって、その間をぬって歩くのは何よりも楽しい。
たまたま通りすがった家の窓は開いていて、暗闇にうっすら見えるアップライトピアノの演奏があたりに響いていた。絵にかいたような光景にぼくは足を止めた。
聞こえてくるのはクラシックのピアノ曲ではなく一世風靡したアーティストの、晩年のあまり売れなかった曲だった。僕はなんだか懐かしくなって、そのまま立ち止まって演奏を聞いていた。
ふと気づくと演奏は止んで、ピアニストはこちらを見ているようだった。
ぼくは苦手な挨拶をこちらからすることにした。敵意がないことを知らせるための一番平和な行動だ。
「こんにちはこんにちは」
「やあ、人がきてくれるのは珍しいですね。どうぞどうぞこちらへ」
「いや、知っている曲が流れていたので、つい懐かしくなって立ち止まって聞いてしまいました。生演奏はいいですね」
「この曲を知っているんですか? 最近出た新曲だったんですが、あまり売れないうちに世界はこんなことになってしまったので、知っている人もそんなにいないかと思いましたが」
「そうですね。ところであなたはピアノが弾けるんですね、いいですねえ」
ぼくは話し方を少し間違えてしまったので、話題を変えることにした。
「ええ。ただ残念なことに私は調律ができないので、このピアノも多少音がくるったまま弾いてしまっていますが」
「ぼくにはそんなに違いはわからないな。こういう楽器は今でも音がなるからいいですよね」
人間は夜に光を灯すことができなくなっても、夜を音で満たすことはできた。手探りでも、いつもの演奏を忘れずにいることができる。こういうふうに暗闇で音楽を楽しむことが他の場所でもあったのだろう。歌を歌った人もいるだろう。
ぼく自身は音楽をそれほど必要としていないけど、人々が音楽を囲んで同じ時を過ごすことを大事にしているということは今ならわかる気がする。
「窓の近くにあったので、昼間のうちにこのピアノを見つけることができました。もしかしたらこのピアノを弾いた最後の人間が私になるかもしれないですね。あなたはその演奏を聞いた最後の人になるかもしれないな」
ぼくは何も気の利いた言葉を返せずに、そうですね。ではそろそろ失礼しますと言って、その場から去った。
ぼくの後ろから、追いかけてくるようにピアノの演奏が聞こえた。ぼくが住宅街の角を曲がると、音楽はぼくを追いかけるのを諦めたように遠ざかっていった。
彼がピアノで弾いていた曲の歌詞は「世界はいつまでも続くだろうから、子どもたちに歌を教えよう」と言う曲だったけれども、もうその曲を作った時点できっと、世界がこんなふうになることを彼は知っていたんだろうと今なら思えるのである。
備えはあっても。
天気のいい日、ちょうどいい気温で、
あまりの気持ちよさにぼくは大きく息を吸った。
「クシャン!ずるずる…」
花粉の存在を忘れていた。最近花粉とは無縁だったからなあ。
今日は景勝地と重要文化財を見ようと思う。ぼくは普段あまりこういうものを見たりはしないが、旅の目的にする人も多いだろう。
目的地へ向かう道すがら、古い町並みの中の少しばかりの違和感に気づいて足を止めた。
古そうな民家の木戸、玄関にふたつずつ消火器が置いてある。
まるで狛犬のように左右に置かれていて、そのふたつの消火器の間を通らないと家に入れない。さらによく見ると、庭の岩や木のそばにも消火器がある。縁側にも……縁の下にもちらっと見えているなあ。
「何を見ている。きさま放火魔か?」
「えっ」
思わぬ疑いをかけられ、声のする方をパッと見ると老人が立っていた。
「いや、消火器がたくさんあるなあって思いまして。それ以上のことは何も」
まだ老人は胡散臭そうにぼくを見ている。
「えーっと、これだけ設置されていれば安心ですね。火事が起きてもすぐに対処できるでしょうね。わあ、井戸もある。かんぺきだ」
あちこちに設置された消火器をひとつひとつみながらそう褒めると、老人は「そうだろう、そうだろう」と態度を和らげた。
「何が怖いって、火事が怖いからな。全てを失うから。私がここで大事にしているもの全てだ」
老人はしみじみと家を眺めていた。
「物質はいつかなくなるものだから、あまり心の拠り所にしすぎるとのちのちつらくなりませんか」
ちょっとうっかり、言わなくてもいい本質を口に出してしまった。
老人はしばらく黙ってから
「それでもなあ、なくなってほしくないものはあるし、守れるものは守りたいんだよ」
と、今までで一番柔らかい声でぼくに教えてくれた。
ぼくの認知したもので、残ってるものは一つだってない。でもそんなことを言ったって誰も幸せにならないよね。ぼくは老人が出してくれた冷たいお茶を飲みながら、近くの文化財の話や町並みの歴史の話を聞いた。この家では火を使わないことにしているそうだ。料理も飲み物もお風呂も、灯りすら熱をもたないのだ。
「きみはまだ子どものようだから、大事なものはこれから見つけるだろうな。そしたら私の気持ちが少しだけわかるかもな」
ぼくはほんとうは子どもではないし、大事なものも大事じゃないものもすべて並列に「ココ」に持っているんだけど、いまはただ老人の目を見てだまって話を聞くだけだった。きっとぼくのしんけんな瞳は澄んで見えているに違いない。
夕方、お別れを言って老人の家から出たあとぼくは「端末」を操作して「情報」を取り寄せた。
「ああ、」
こんなに備えていても、どうしようもないことはあるんだな。
ぼくは最後にもういちど老人の家を眺めてから、この街を後にして次の街に向かうことに決めた。
トロッコと報酬。
少し地面が盛り上がったぐらいの、たいして高くもない山のふもとで切り株に座っておにぎりを食べた。
薄曇りだから日陰を探す必要もない。おにぎりは少し塩を振ってあるだけのシンプルなもので、こういうのでいいんだよと独り言を言いながら次々食べた。おにぎりは全部で五つあるけどぼくはそれぐらいならなんてことなく食べられてしまう。
このおにぎりを手に入れたのもちょっと変わったエピソードだったけど、それはまた今度書くとしようか。
おにぎりをほおばりながらふと周りを見回すと、草に埋もれるようにしてレールが敷いてある。レールの終点を見るとトロッコが置いてあって、なるほどこれで山のあちら側に何かを運ぶんだなと想像する。だいぶ昔、トロッコを押すのに夢中になって遠くまで来てしまって帰れないと泣く少年を見たことがある。ぼくは少年に「干渉」できなかったので、その様子を眺めているだけだった。ああ、あんなに泣いてかわいそうだなあとは思ったが、ぼくは基本的に他人に興味がないし、たぶん何とかなるだろうと思ってその場を離れたんだ。ただそのことはずっと心には残っていて、少年がトロッコを楽しんだうえで帰ってこれるような「仕組み」をなんとかできないか考えていたことも思い出した。
そうしている間にひとりの老人がやってきた。
老人はコロコロとトロッコを押している。ぼくの近くを通り過ぎようとしたとき、ぼくの存在に気付いたようだった。
「そこの若いの、トロッコを押すのを手伝ってくれないか」
「え、ぼくですか。ぼくはそういう労働はできないですよ、実際は若くもなければちからもないし」
「わしを見ろ。こんなおいぼれよりはおまえさんのほうがずっと若いしマシだろう。報酬もやるぞ」
報酬も出るのか。じゃあぼくにも手伝えるかな。
ぼくは残りのおにぎりをリュックにしまって、街のほうまで降りた。街のいりぐちでは数人の子どもたちが縄跳びをして遊んでいて、ぼくは子どもたちに「お小遣いほしくない? トロッコ押すのを手伝ってくれないか?」と声をかけた。子どもたちは喜んでぼくについてくる。牧歌的な時代だなあ、知らない人についてきちゃうんだもんな。まるでハーメルンの笛吹きのようにぼくが子どもたちを連れて歩く絵面は客観的に考えるとなんだか愉快だ。
「このトロッコをおせばいいの?」
「そうだよ。あっちに行って荷物を積んで帰ってきたらお小遣いをあげるから、なるべく早くかえってくるんだよ。そしたら夕方までにまた遊ぶことだってできちゃうよね」
子どもたちにとってはこんな労働も遊びだ。実に楽しそうである。
子どもを何人も連れてきたことに老人は戸惑っていたが、こどもたちは確かにトロッコを山のむこうに押していき、あちらで荷物をつみなおしてこっちに運んできてくれたのだ。「お小遣いおくれ!」とやってくる子どもたちに、ぼくは老人から受け取った報酬を分配し、「これも食べていいよ。みんなで分けてたべな」とおにぎりを二個渡した。
喜んで帰っていく子どもたちに手を振っていると、老人がぼくのほうを見ながら「おまえは自分の体を大して動かしもせずに労働をやってのけたなあ」とあきれた口調で言う。
「しかも、金を全部は子どもたちに渡さなかったな。少し自分でも取っただろう」
「雇用の創出ですよ。少しはぼくも報酬をいただきたいですよね。おにぎりも渡したしいいでしょう?」
「まあそうだな。いいだろう。おかげで結果として仕事はとても早くおわったよ、ありがとう」
「どういたしまして。それではぼくは次の街に移動しますねー」
リュックを背負って歩きはじめるぼくの背中に、老人の独り言が聞こえた。
「子どもがトロッコを押すのを見ると、わしが子どものころに遠くの町まで夢中になってトロッコを押してしまったあの夕方を思い出すよ」
ぼくは振り返らずににっこりと笑った。
渋谷の路地で猫に会う。
渋谷に坂が多いのは今に始まったことじゃないが、ぼくは坂のせいでこのあたりを歩くのを避けてしまうほど坂が苦手なのだ。
ぼくは体力がないし荷物が大きい。旅の途中だから荷物を預けるわけにもいかないのはいつも通り。
ただ、このごろは電動キックボードが普及してだいぶたつからそれをつかうという手がある。こういう乗り物は大好きだし、一台借りて乗ることにした。
キックボードも自転車もほかに借りる人がいないようでだぶついている。充電も問題なさそうだ。ぼくの声紋は登録済みだから今回はそれを使ってデポジットから支払う。
今の時代なら渋谷といえども人であふれているわけではないだろうというぼくの判断は正解で、キックボードが普及したときのように人を縫って走行する必要がなく快適だ。むしろ人影がないのに、あの看板は・あの巨大モニターは誰に向けて情報を発信しているのだろう? そんなことを考えながら横道に入り、なかなかの急坂を昇り始めた……のだが。
ぼくの荷物が重すぎるのか、電動キックボードが進まない。体重は重くないはずなので、荷物の問題だと思うのだが……がんばれ!がんばれぼくのキックボード!
応援もむなしくキックボードは進まなくなってしまい、後ろに倒れる前に慌てて飛び降りた。
結局坂を自力で昇る羽目になり、重い荷物を担いで汗を流しながらフウフウと昇った。キックボードだけでも置いていきたいが……そういうわけにもいかず……
「まったく体力がないにゃんね。昔の人間ならポケットに手を突っ込んでスキップで行くぐらいの余裕があったにゃんけどね」
声のする方に顔を向けると、建物の隙間にあるエアコンの室外機に1匹の白猫が座っていて、けだるそうにこちらを見ていた。
「いましゃべってたのは、ねこのあなたですか?」
ぼくが息を整えながら声をかけると、
「そうにゃんね。あーあ、なさけないニャ~」
と返事をするのだ。
「ニンゲンの言葉がしゃべれるようになった長生きの猫又さんなんですね」
花の季節は過ぎすっかり葉っぱになったさくらの樹を背に、手すりに腰かけて水を飲みながら休憩しつつねこに話しかけた。これは妖怪のたぐいだろう。
「いんニャ。インターネットでねこのような言葉を使っていたらいつのまにか九尾の猫になってしまったのニャが、もとは人間なのニャよ」
「九尾のキツネではなく九尾の猫……エラリィ・クイーンですか」
「アガサ・クリスティよりエラリィ・クイーンが好きだったニャンね」
「もしあなたがアガサ・クリスティのほうが好きだったら……」
「渋谷じゃなくて上野公園のハトの群れの中にいたかもしれないにゃんね!」
おたがいにニャハハハ!と笑った。
「この坂は特にきついにゃんよ。恵比寿のほうに行くならいったん降りて、もう一本南の道を行ったほうがすこしはましにゃんね」
「ありがとうございます」
ぼくは礼をいって、坂を下りることにした。
「おまえのいのちを十本目の尾にすることができなかったのは残念にゃんね」
えっ? ぼくがふりかえると、そこにはもう九尾の猫の姿はなかった。
いい天気の日の旅は手ぶらにかぎる。
その日は良い天気でちょうど良い気温だったので、ぼくは珍しく乗り物を使わないで自分の足で歩いていた。
こういう日は手ぶらにかぎる。
そう言いながら、結局大きなリュックにいつもの荷物を入れて歩いているのだけど。
基本的に体力のないぼくはやっぱりすぐに疲れてしまって、お堀のそばのベンチに腰掛けて少し休憩をした。リュックをおろすのは面倒で、背負ったまま、上着のポケットに手を突っ込んで空を見上げた。都会の空は狭いみたいなことを言うけれど、高層建築の間にも十分きれいな空と白い雲を楽しむことができるから、ぼくは空を見上げるのも好きだ。
ぼーっとするのも楽しいな。しばし、デバイスへの接続も忘れてビルの隙間の幾何学的な空を見上げていたけれど、そろそろ移動しようとベンチから立ち上がった。
「おいてけ」
「ハイ?」
「おいてけ」
やっぱりどこかから声がする。ここにはいまぼくしかいないから、ぼくに言っているのだろう。声の主の姿は見えない。
「ぜんぶ、おいてけ。背負ってるやつぜんぶ」
「ぼくのこのリュックの中身をですか? それはこまるなあ。必要なものしかはいっていないし」
「とにかく、おいてけー」
「ここは『おいてけ堀』ですか?」
あんまり「おいてけ、おいてけ」と繰り返すので面白くなってしまって、ぼくがぽそっとつぶやくと、お堀の水の中から水草まみれのいきものが姿をみせた。
「おいてけ堀をしっているのか」
「あ、やっぱりおいてけ堀なんですか? 昔話には聞いていたけど、実際に来たのははじめてだなー」
「おいてけ堀をしってるやつが来たのは久しぶりだ。おまえ、何処から来た。答えないな。まあいいや。ここのものではなさそうだな。なのにおいてけ堀をしっているのか、うれしいなあ。あ、そうだこれもってけ。いいからいいから。遠慮するなよ、もっていけよ」
なにか硬くて白い丸いものを押し付けられて、ぼくは「いや、いらないですよ、荷物が増えちゃうし。旅の途中なんですよ。そもそもなんですかコレは」といったん断ったが「わたしのじいさんのものだから遠慮はいらないよ。荷物もそんなにあるんだからこれぐらい増えてもいいだろう。もってけもってけ。なにか代わりに置いていってもいいぞ……」というので結局受け取ってしまった。
お堀のいきものと別れて、ぼくは再び歩き始めた。どこかでお茶でも飲みたいな。それにしてもこの白いものはなんだろう……薄くて、少しへこんでいて、丸くて……
「ああ、これは」
河童の皿によく似ていると思った。
幻の島で潮干狩りをする。
海を見に行こうとひとりで歩いていたら、通りすがりのおばあさんに
「旅の人かい。今日は大潮の日だよ。あそこに見える島に歩いて行ける日はそうそうない。あさりもはまぐりも取り放題だろうねえ」
と言われた。会話はできず、ぼくが何か返事をしようかと言葉を選んでるうちにどこかへ去っていってしまった。
ぼくは料理をしないので(そもそも旅先だ)、あさりやはまぐりをとってもどうしようもないのだが、久しぶりに童心にかえって潮干狩りをするのもいいなと思った。
さっそく島が良く見えるところまで近づいてみると、なるほど歩いて行けそうである。何の道具も持っていないけどそれほど取れるのだったらいくつかは掘り出せるのではないだろうか。
島に行く途中で少し大きな二枚貝の片割れをみつけて拾った。これで砂を掘るのは楽しそうだ。
島はごつごつした大きな岩で、たくさん空いた穴には海水がたまっているので普段は海に沈んでいることがよくわかる。ぼくはしゃがんで岩の根元の砂浜に適当に穴を掘ってみる。じわっと海水がしみだしてきて、くぼみに水たまりを作った。
子どものころ以来だ。久しぶりに砂を掘っている。掻き出しても掻き出しても水がジワッとたまり、洗われ磨かれた砂粒が輝いていて、ぼくははまぐりのことを忘れて「深く掘る」遊びに夢中になった。
そうしているうちに何かに行き当たり、ぼくははまぐりのことを思い出してそっと砂をはらいのけた。あった! ……大きな二枚貝をほりだして両手で抱えるようにして持ち上げた。
すると周りの砂がぽこぽこと穴をあけて、そこから中ぐらいのはまぐりや小さなはまぐりたちがたくさん飛び出てきた。「ああ、とうとう捕まってしまった」「姫を捕まえる存在が現れた」
ぼくはびっくりして、はまぐりたちを踏まないように足をどかした。「なんだ、なんだ?」
「わたしたちははまぐりです。中でも一番大きな貝は”姫”と呼ばれて、特別な存在なのです。姫を掘り出したものは姫より強いので、姫と結婚していただきます」
「ぼくが? ちょっとまってくださいよ……」
姫……ってこのはまぐりでしょ、結婚?貝と?
「一番強いものと結婚するのです。前の姫と結婚したのはネズミでした。太陽よりもずっと強かったので、この世界で一番強い存在でした」
「ぼくは結婚するつもりはないので……申し訳ないですけど。そうだ、またネズミと結婚してはいかがですか、ネズミが強いとわかっているのであれば」
「ネズミは強いですが、この姫より強いかどうかはわかりませんからね。いまあなたは姫を掘り出したので、強いですよね」
「そもそもぼくははまぐりでもないので、結婚はできないでしょう?」
「いいえ、あなたをはまぐりにするのは簡単なことです。わたしたちだって、姫だってはまぐりになったのだから……」
困っちゃったな。
ぼくはとっさに、手に持った貝の殻を指した。
「では、この貝殻が一番つよいのではないですか。ぼくはこれがなければ姫を掘り当てることはできなかった。弱いんですよ」
するとはまぐりたちは納得したように貝をパクパクさせた。
「そうだ、その貝殻が強い」
「そちらを婿にしよう」
「じゃあ、ぼくは帰りますねー」
貝殻を姫の隣へ置いて、ぼくは岸の方へ引き返した。潮はすこし満ちてきていて、来た時より海面から露出している砂浜は減っているように見えた。
振り返ると先ほどの貝殻を置いた場所にはいつのまにか大きなはまぐりがいて、並んだふたつの貝はこちらに向かってもの言いたげにパクパクと貝殻をうごかしていた……
新宿にはいろいろな旅人がいる。
新宿は自分の街ではないと思っているので、いつも旅気分になれる。
実際に新宿は人気の観光地だから行くたびにたくさんの観光客と出会える。
ぼくは歌舞伎町のネオン街のそばを通った。古い友人とここを通り抜けた先の店へ、異国の料理を食べに行く約束をしているからだ。ネオン街は相変わらず観光客でごった返していて、彼らは引きずるほどの大きな荷物を持ったままその場所で記念撮影をしている。
記念撮影、そうか、まだみんなカメラを持っているんだな。そして最後のネオンの記録をアーカイブしているんだ。もうネオンでしかないのに。
いつからか新宿は空っぽになって、人気のネオン街テーマパークとしてその姿を残すのみになっている。もうあの窓も灯りをともしているだけで中では何も営まれていないのだ。
「客引きは禁止されています。ついていくとぼったくられます」
街灯の上からそんなアナウンスがBGMのように流れた。
「あの頃」もこんな内容だったかな? 少し違和感があるが、客引きだのぼったくりだのという概念が無くなってからすでにだいぶ長い時間がたっているのでしょうがない。
それでも夜の新宿が懐かしくて、ぼくは歩く速度を少し落として散歩することにした。
「おにいさん、ホラッスルのひと?」
ドキッとして声のする方を見ると、ここに放たれているネズミのロボットキャストがぼくをみて「ニヒ!」と笑った。
「えーっと、きみは?」
「アタシはむかし新宿にたくさんいたネズミさ。いまはフロア下のシステムメンテをやっているよ。縁の下にはネズミがいるもんさ」
ぼくは考え事をするときの癖で長く、深く息を吸ってはいた。
「ああ、すみませんね。おにいさんが何者か、答えなくてもいいよ。あんまり追及するとアタシが危ない」
「そうしてもらえるとありがたいのですが―」
立ち止まってしまったので沈黙に耐えられない。
「あのー、この辺でおいしいレストラン知ってます?」
「アタシはネズミだから!知らないよ!」ネズミはニヒッニヒッと笑った。
「新宿に住んで長いから昔はよく知っていたけどね。いまはどの店が残っているか、把握できていないよ」
「でもね、この街を抜けて少し行ったところに……まだ”プロフ”を覚えている店があったはずだよ。あそこのプロフは絶品だったから、おにいさんもたべれたらいいよね」
「今から友人とそこへ行くつもりなんですよ。彼はそろそろ店についているかもしれないね」
「それはそれは、早く行って御上げなさい。アタシはまた仕事に戻るから」
ネズミさんにもプロフを持ってきてあげようか。ぼくは念のため聞いてみたけど、やっぱり「ネズミになってからは食べられないからもうあきらめたよ」と、「ニヒ!」と笑い、街路樹の根元に空いた穴から地下へ潜っていったのだ。
2023年のサンタに路地裏で会う。チキンはごちそうだ
もうクリスマスも過ぎ、街を華やかにかざったディスプレイがどこに行ったかというと「路地裏」だ。
ぼくはこの時期に都会を旅をしては路地裏に入って、近くで見ると意外と汚れているクリスマスのディスプレイを見るのが好きだ。最近は2か月近く飾られているせいで、排気ガスや粉じん、鳥の糞などで汚れてしまっているものが多い。これを見ると無性に胸が締め付けられるのだ。心地いいぐらいに。
そのガラクタの中にサンタがいた。比喩表現ではなく、サンタそのものだ。白い偽物のひげをつけているがあまり清潔ではなく、まるっきり他の片付けられたガラクタたちと同じ汚れ具合だった。
「あなた、もしかしたらサンタさんではないですか? どうしてここに」
ぼくが声をかけると、こちらを向いたきれいな瞳が見る見るうちに潤み「私は……2023年から来たのだが、帰れなくなってね……」とあきらめたような口調でいう。
「事情は察しましたよ。あなたラッキーですよ、2023年から来た、ってその言葉の意味が分かるひとはほかにいなかったでしょう?」
「きみは、”わかる”のか?」
「覚えていますか? 2023年ではどれがきっかけだったのか……」
サンタはゴミの山のようになっているディスプレイをつまみ上げて言った。
「こういった丸いキラキラしたボールと、ビーズのようなものがつながった三角形を通り抜ける遊びをしていたのだが。クリスマスがとうとう終わってしまったのだ」
「2023年に戻りたい」
ぼくはだいたい理解できたので、ゴミの山からサンタが言う丸いボールとビーズを探し出し、電柱に引っ掛けて「ホール」を作った。
「これで帰れるはずですよ、2023年に」
「本当かね! ああ、確かに行き来してた時と同じ穴が開いている。一か八か行ってみるよ。ありがとう……これはちょっとしたお礼だよ」
サンタの持っていたナップザックからフライドチキンが出てきた。
「チキンとは、ごちそうですね」
ぼくが受け取ると、サンタは三角のホールからすでにあちら側へ移っていた。
「どうやら本当に帰れそうだ。 君はサンタを知っていたんだね」
サンタが言い終わるかどうかといったところでホールは再び力をうしなってふさがった。
「そうですね。ここではぼくぐらいしか知らないでしょうね、サンタのことは」
2023年にはまだいたね。
ぼくは久しぶりに純度100%のチキンを食べることができたのだ。
墓の町を旅した。
あれはどこだったか、そうだ、だいぶ西のほうだった。肝心のスタート地点を忘れてしまったので、どれぐらい西だったかが思い出せないが確かに西だった。
小さな舟でようやくたどり着いたころにはすっかりおなかが空いていたぼくはこの町の名物料理でも食べようと考えたが「飲食店はない」と教えられた。「あなたはこの町の人ではないでしょう、船頭さん」というと、「住んでいなくてもよく知っています。ここに住んでる人間はそもそもいないのだから、店もないですよ」……だそうだ。
船着場から少し歩くと急な階段があって、登りきるとまた降りる階段だけがある。
その日は暑くもなく、うっそうと樹が茂って階段の上には影を作っているので上り下りは苦ではなかった。いや、階段に苔や落ち葉が積もっていて、降りていくのは少々足元に不安を感じたな。
ここで「写真」を一枚撮影した。

写真はすでにこの世界では使う人がほとんどいなくなっているが、ぼくは好きでいまだに持ち歩いている。「カメラ」がどういう風に世界を見ているのか知るのは楽しい。
階段を下りきるころからぽつぽつ見えていたが、墓が多い。
いろいろな形の墓だ。
でも墓とわかる。
常々不思議に思っていたのは「墓」の存在で、この生き物は墓を作っていたらきりがないだろうにどうして墓を残すのかということだ。
もしかしたらいずれみんないなくなるということがわかっているのかもしれない。だからそれまで墓を作っている。永遠に続くのなら墓など作り切れない、墓で埋まるということはすぐに予想ができるだろう。
積んである石も刻んである言葉もひとつひとつが墓のようだ。打ち捨てられた古い電化製品も乗り物の車輪もすべて墓になっている。
古い案内の看板を見つけて読んでみると、「ここにはもう墓を作れないので、人は住まなくなった」と書いてあった。なるほど。
ぼくはこの土地からまた小さな舟で帰る。船頭は「墓しかなかったでしょう」と笑った。
「あなたの町にも墓はありますか」
ぼくがたずねると、
「ありますよ。まだまだ墓をつくれますからみんな住んでいるし、うまい食堂もありますよ。連れて行って差し上げましょう」
と船のスピードをあげた。
旅をしようと思う。まずは旅の思い出を。
旅は良いものだ。2023年はよく旅をした。北は北海道から南は沖縄まで、「日本」国内ではあるがそれなりに距離が離れており、立派な「旅」だろう。
辰年になれば龍に代わるが、2023年はウサギに乗って旅することに決めていた。ウサギはすぐに疲れて寝てしまうイメージがあるものだが、ぼくの利用したウサギはみな働き者で、よく移動した。
「へい、何処まで行かれるんで?」
ウサギが前歯を見せてそういうので、ぼくは「北海道まで。札幌へ頼む」と答えた。
ウサギはそれから札幌まで、休まず跳び続けた。台風も近づいていたから揺れるのではないかと不安だったが、乗り心地も悪くなく、1時間半ほどで札幌までついてしまった。
「あなた、ウサギにしては働き者ですね。途中で一泊ぐらいは覚悟していたんだがー」
ぼくがそういうと
「前回のウサギ年まではそういうウサギが残っていたと聞きますけどね。いまわたしたちはみんな真面目にはたらいていますよ。どのウサギも真面目になった。物価も高くなってる、稼がなきゃね。お客さんを下ろしたらまた別のお客さんを乗せて次の場所へ行きますよ」
なるほど、長い前歯は硬い食べ物をかじらずにいたからだな。
「これで硬いものでも食べてください」
ぼくは運賃に少し足してウサギに渡した。
「ヘエ!ありがとうございます。帰ったら落雁、いや和三盆。子どもも喜びます。白い恋人はちょっとやわらけえなあ。トウモロコシの芯は味気ねえ。京都まで足を延ばして八つ橋を買うか。いやこれは楽しみが増えました」
ウサギが跳んで帰っていくのを見ながら「切り株に気をつけて」とその後ろ姿に声をかけた。聞こえたかはわからないけどね。